Book2看板 Dragon Sword Saga2 〜Ⅵ〜

ロッド右向きキラキラ100Ⅵ.『人生最大の決断』キラキラ100ロッド左向き

剣月紫ライン  〜 Ⅵ.-2 〜  剣月紫ライン


アストーレ北の山

 貴族の決闘というものは、命を賭けた本当の決闘とは違う、というのは有名な話で ある。  偽の剣を使い、誓いの言葉――この場合、負けた方は、アイリス王女との婚約者候 補となることを断念すること――を、決闘の発案者であるモンスコール王国王子が述 べ、次に、負けの判定となる要項があげられる。  『まいった』と言えば負け。戦闘不能も、当然負けである。  その他、泣いたら負け、逃げ回っているだけでも負け。  注意事項としては、木に登ってはいけないなどが挙げられた。  要するに、制限時間のない武道大会のようなものであった。  ただし、厄介なのは、ごくたまに、決闘の結果が気に入らず、国同士がその後戦争 になることもあることだった。  武道大会などでは、その時の禍根を残してはいけないことになっているが、決闘の 場合、その辺は、曖昧にされている。  モンスコールもデロスも、武力に力を入れている国として知られている。屈強の 騎士たちが揃っているのはもちろんのこと、歴代の王子たちも、軍を率いて戦って きたことは、中原では有名な話であり、彼ら二人も例外ではない。  更に、モンスコールは、中原から東方を縦断する、とてつもない大山脈の並びに 位置していることをいいことに、東側の情報を一切ストップしてしまっていた。  東方の文化も取り入れた、独自の文化を築いていたために、服装でも甲冑でも、 東洋がベースではあっても、他国からすれば、どこか奇妙で共感しにくい部分がある。  そして、現在の中原において、もっとも好戦的という、一番危険度の高い国であっ た。勝つためならば手段を選ばずというのも、実にモンスコールらしいと言えた。  純粋に、武道を伝統とするデロス王国とは、タイプが全く違うのだった。  その点でも、両国は、長年、表立ってはいなくとも、対立していた。  北の山は、呑気にも、見物客たちで賑わっている。  一番見晴らしの良い場所にはテントが張ってあり、アトレキア国王とアイリス王女 が、豪華な椅子に腰掛け、その後ろに立っているのが護衛のケインと、王女の侍女 代行を勤めるクレアであった。国王のもう片方の隣には、マスカーナ王子がいる。  警備兵は、その後ろを円形に囲むよう並び、ロープを張っていて、観客たちを、 それ以上入らせないよう監視している。そこに、カイルの姿があったが、ダミアスと ヴァルドリューズの姿はない。  いよいよ決闘が始まろうとしていた。  王子たちは、顔に怪我をしないよう軽めに作られた決闘用の兜を抱え、軽装に、 部分的に甲冑を着けている。  デロスのカール王子は、厳(いか)つく、頑丈そうな鉄の甲冑、タペス王子は、動物 の角のような突起の多い、黒い奇妙な甲冑で、それぞれの国の特徴が現れていると言 えた。  白い騎士は、マリスお気に入りの、例の甲冑である。  手にはリストバンドとレザーナックルのみで、脚も肌を出し、革のロングブーツ という、普段よりも軽装になっていた。兜などはない。  甲冑のデザインも、二人に比べれば、ずっとスマートで洗練された印象を与え、 白地に金色の模様が日の光に照らされ、きらきらと眩(まばゆく)く輝いていたものだ から、『彼』は何もしなくとも、そこに、そうして立っているだけで、またしても ギャラリーの女たちの心を捕えていた。  モンスコール王子、デロス王子は、それぞれ用意された剣を取り出すが、白い騎士 は何も持たない。いつも腰に下げているロング・ブレードは、持ってきていなかった。 「どうしたのだ? 」  カール王子が不審そうにマリユスを見る。『彼』は、にっこり笑ってみせた。 「剣はいりません。素手で向かわせて頂きます」 「素手で、私たち二人をお相手になさるというのか!? 」  またしても、ギャラリーから悲鳴のような歓声が沸いた。二人の王子の立場は、 まったくといっていいほど、なかった。  カールも、さすがにプライドが傷付いたらしく、その表情は怒りで引き攣っている。  タペスは最初から、ぶすっとしていたが、ケインには、それは生まれつきに見えた。  王子たちは兜を被り、鞘から剣を抜き取り、構えた。  それに応えて、マリユスも素手で構える。  決戦の火蓋は、一気に切って落とされた!  「やーっ! 」 「でやーっ! 」  二人の王子の同時に繰り出す剣を、白い騎士はひらりと飛んで躱(かわ)す。二人は、 すぐに向きを変え、後ろから襲いかかっていく。  マリユスは、両手を地面に着き、逆立ちをするようにして、カール王子の顎を蹴り 上げた!   そのフォームの美しさと、鮮やかな技を見事に決めた『彼』に、「おおっ! 」と、 観客の声が上がった。  よろめいているカールを尻目に、タペスが剣を突き出したまま、突進していく。  脚を降ろし、立ち上がると同時に、マリユスが、振り下ろされた剣を腕で防御する。  が――!   手首のリストバンドが受けたところからは、鮮血が吹き出した!  (タペスのヤツ、真剣を――!? )  ケインを始め、観客たちも身を乗り出す。  マリユスの左腕からは、ぼたぼたと血がしたたり落ちて行く。傷が浅くはないこと は、そこにいる者すべてに伝わった。途端に、観客から悲鳴が起こり、中には、卒倒 している貴婦人たちもいた。 「あいつ……!! 」 「……なんてことを……!! 」  ケインもクレアも、今にも駆け出したい衝動を、やっとのことで抑えた。 「タペス殿! それは、真剣だったのか!? 」  体勢を立て直したカール王子が驚き、不適な笑いを浮かべているであろうタペスを、 兜の間から、咎(とが)めるように睨む。  それを、マリユスは、無事な方の手で制した。 「やはり、真剣だったか」  マリユスは、タペスに向かって、嘲笑するように、ふっと笑う。 「手当しなくては……! 」 「大丈夫です、殿下。出血多量で倒れる前に、勝負を決めてご覧に入れますよ」  その言葉で、観客もカールも、動きが静止した。  言葉の内容よりも、その時のマリユスの微笑みが、妖しいほど美しかったせいだろ う。 「でやーっ! 」  ただひとり、美とは無縁な者が、剣を振り翳し、マリユス目がけて突進するが、 ひらりと躱す。 (なんでもいいから、早く勝負を決めてくれ! それに、手当くらいしろ! )  ケインは、心の中で叫ばずにいられなかった。  ショックだった。  マリスが――わざとにしろ、あのマリスが戦闘で傷付くところを見たのは、初めて であった。  ケインから見たタペスは野盗などよりはよほど訓練され、それなりの実力である のも認めるが、マリスに怪我を負わせるなどとは、予想もしなかった。  まだ自分も本気で手合わせをしたことのない、いずれしてみたいと思ったほどの 戦士など、それまで出会ったこともない。  それが、出会えたのだ!   しかも、それは、自分よりも年下の少女であり、エルフのように、人間離れした 美しい外見という、思いがけない人物だった。  彼は、自分よりも実力は上だと認めていたマリスを傷付けたのが、最大級のモンス ターや魔道士ではなく、よりによって、タペスであったのが、神聖なものを汚された ように思えてならなかったのだった。  決闘はさらに続く。ただし、武道家としての誇りからか、カールは一旦引き、ほと んどタペスとマリユスの一騎打ちとなっていた。  タペスの外見と性質と、しなやかでスマートなレイピアとは、不釣り合いも甚だし いが、なかなかの使い手と言えた。 「ケイン、マリスは、……まさか、苦戦してるんじゃないでしょうね? 」  クレアが、小声で尋ねる。 「そんなことはないと思うけど……」  華麗に飛び回っているマリスだが、一向に決めようとしていないのは、ケインは もちろん、クレアにさえもわかる。 「おのれ、ちょろちょろと動き回って、小賢しいマネを……! 」  レイピアを振り回すタペスの顔は、兜の中で、どす黒くなっていた。  シュッ!   タペスの薙いだ剣は、よけたマリユスの頬を掠(かす)め、オレンジに輝く髪の毛先 が、僅かに、はらりと風に舞う。  女性たちの悲鳴がまたしても起こったと同時に、タペスは、足を引っかけて、『彼』 を転ばせた。その上を、跨(また)いで立ち塞がり、『彼』の顔にレイピアを向けると、 女たちの悲鳴はますます大きくなっていった。 「フッフッフッ……」  勝ち誇ったような笑いが、タペスの兜から漏れる。 「どうやら、勝負はついたみたいだな。素手にしては、よくやったと言えるが、所詮、 この俺様には敵(かな)わなかったのだ。どうだ? 負けを認めるか? この期に及ん で、なおも認めないのなら、ここで、貴様のその綺麗な顔を、ギタギタに切り裂いて やってもいいんだぜ? 」  タペスが、笑い声を上げた。 「お父様! お願いです! もうやめさせて下さい! このままでは、マリユス様が 殺されてしまうわ! 」  アイリス王女が、半分泣きながら、王に訴えるが、王は、悲しそうに首を振った。 「アイリスや、決闘とは、どんなことがあっても、第三者は介入出来ないものなのだ よ」 「でも、でも……! タペス様は、本物のレイピアをお使いだわ! 反則なのでしょ う!? 」  王は、またしても悲しそうな瞳を、娘に向ける。 「マリユス殿が、『それでも構わない』と言ったのじゃ。これは、彼ら男同士の尊い 戦いじゃ。余たちには、どうすることも出来ぬ」 「……そんな……! 」  アイリスは、崩れるようにして伏せてむせび泣いた。後ろから、クレアが抱えるよ うに、王女を慰めながら、背に手を当て、緊張しながら戦況を見守る。  ケインは、拳を固く握り締めて、ぐっと堪(こら)えていた。 「どうだ? 負けを認めるか? 」  タペスが勝ち誇ったように、再びマリユスに問う。  マリユスは、ふんと挑発するように笑った。 「おのれ! 貴様、まだこの俺様を、愚弄(ぐろう)するか!? 」  タペスがレイピアを突き刺そうという時、いきなり絶叫しながら宙に舞い上がっ た!   どさん!   彼が地面に叩き付けられた時には、マリユスは、既に立ち上がっていた。 「……お、おのれ……! 貴様、……この俺に、……なんてことを……! 」  伏せた体勢で、タペスは股間を抑えながら、ぜえぜえ息をしている。 (ムゴい……、なんてムゴいことを……! )  何が起きたのか、見えていたケインとカイルは、途端にタペスに同情した。 「これは、決闘だ。先程のルールの中にも、なかったしな」  マリユスが、にやっと笑い、タペスの丸まった背中に、片足をかけ、兜の中を覗き 込む。  タペスは、唸り声しか上げられず、何も言えずにいた。 「ふふん、痛いか? これで、おあいこだな、ぼうや」  『彼』は、もはや、王子に向ける上品な言葉遣いは、していない。 (もしかして、野盗をイビっている時のような快感を得ているのでは……!? だと したら、いけない! 逃げるんだ、タペス王子! 身ぐるみ剥がされて、大衆の面前 で大恥をかかされる前に……! )  つい先程までマリスを心配していたケインは、今度は、完全にブタ王子の身を案じ ていた。 「どうだ? まいったか? ああん? 」  マリユスは、タペスの兜の角を掴んで、上に向かせた。タペスは、返事もろくに出 来ず、唸っているだけである。 「ふん、まだやるってのか? いいだろう」  『彼』は、ガツッと片足で、丸まった王子をひっくり返すと、傷付いていない右手 を、彼の仰向けの腹に、くい込ませたのだった!  「ぐわーっ!! 」  タペスが悲鳴を上げ、腹を抱えてのたうち回る。それを、マリユスが見下したよう に笑い、もう一度、レザーナックルを振り下ろそうとした時――!  「よせ! 」  ケインは、自分でも無意識のうちに駆け出し、『彼』の腕を掴んでいた!  「もうよせ! 戦闘不能だ! 」  紫色の瞳が、彼を睨む。  近くで見るマリユスの頬に滲んだ赤い線は、痛々しく、ケインには映った。 「隊長、タペス殿下にお手当を……! 」  呆気に取られていたアストーレの警備隊も、ケインの声で我に返り、タペスを城へ 運ぶ準備を急いだ。  小声で、マリスが言う。 「なにすんのよ、ケイン。邪魔するなんて、最低よ! あのブタ男、あたしの大事な 髪を切りやがって……! 落とし前つけてやんなきゃ、気が済まないんだから! 」 「オマエはヤクザかー!? しかも、顔じゃなくて、髪かよ!? 」  ケインは真面目な顔になると、声のトーンを落とした。 「タペスに何かあったら、アストーレにとばっちりが行くんだぞ? モンスコールが どういう国か、お前だってわかってるだろ? 逆恨みして、アストーレを攻めたりし たらどうするんだ!? ただ立ち寄っただけの国に、いくさの火種を蒔いていく気 か!? 」  マリユスは黙って目を反らし、ケインの手を振り解くと、気を取り直して、カール 王子の方に向いた。 「それでは、第二ラウンドを始めましょうか? 」  カールは、はっとしたように顔を上げた。 「……その前に、マリユス殿、そのキズ、手当された方がよろしいのでは……? 」  マリユスの左腕からは、流れたまま固まってしまった血の跡も生々しくも、新しい 血も出続けている。 「これくらい、平気だ」キッと睨むようにカールに答える。 「せめて、止血くらいしろ」  ケインは、警備の制服である、詰め襟の中に巻いている白いスカーフを取り出し、 マリユスの腕をきつく縛った。 「……おい、お前、やっぱり傷口深いじゃないか」 「平気だって言ってるだろ」  『彼』は、乱暴にケインの手を払うと、カールに向かって構えた。  カールも剣を捨て、後半戦は、まともな武道大会のような決闘に終わった。  結果は、ケインたちの最初の予想通り、マリユスの勝ちに終わったが、カールは、 負傷した相手に全力で向かうというのは彼の武士道に反したらしく、はたから見ても、 本気でないことはわかった。  マリユスの勝利で、ギャラリーの貴婦人たちは、キャーキャー歓声を上げた。 yeメタルラインyeメタルラインyeメタルライン 「ケガ、もう大丈夫か? 」  決闘が行われていた北の山では、今はもう片付けが終わり、モンスターを倒した後 と同じ景色に戻っていた。  そこには、ケインとマリス、ヴァルドリューズのみが残っている。 「ええ。ヴァルに『治療』してもらったから、この通り。キズも何も残ってないで しょ? 魔法って便利ね」  マリスが、さっきまで負傷していた腕を、ケインに見せる。  頬の傷も、完全に消えていた。 「俺に用って……? 」 「これ、遅くなっちゃったけど、……報酬」  それは、マリスがケインに支払う、最初の報酬であった。  ケインは、なぜ今なのか、不思議に思いながら、マリスから受け取った布袋の中身 を確かめる。 「ちょっと多いんじゃないか? 」 「退職金も兼ねてるから。……あなたを解雇するわ。短い間だったけど、ありがとう」 「えっ!? ……ちょ、ちょっと待てよ。どういうことだよ!? 」  マリスは、さわやかな笑顔だった。 「ケイン、自由にしていいのよ。私たちは、旅を続けるけど、あなたは、ここに残る ことも可能だわ」  ケインは、信じられない思いで、しばらく彼女を見つめていた。  マリスは、近くの岩を見つけると、足を組んで座る。 「以前ね、……とても印象的な男(ひと)がいたの」  彼女にしてみれば、もってまわった言い方だと、ケインは思う。 「男のくせに、ひ弱で、か弱くて、儚くてね……。まったく、ガラス細工のようだっ たの。だけど、あたしは、一目見た時から、その男(ひと)が忘れられなくて、…… 好きだとか、そういう感情より先に、……変かも知れないけど、『守ってあげなく ちゃ』っていう気になっていたの」  ヴァルドリューズはもとより、ケインも黙って彼女の話に耳を傾けていた。 「ずっと一緒にいようって、……ずっとあたしが守っていくんだって、思っていたの に……」  山肌を、やさしく、風が撫でていった。  マリスの、オレンジに輝いた髪がなびく。 「ゴールダヌスの運命に導かれるままに、あたしは、国を出たわ。そのことは、悔や んではいないけど、彼のことは……正直言うと、今でも時々、引っかかってるの。 ちゃんとした説明が出来なかったこともそうだけど、側を離れてしまったことを……。 彼は、きっと、あたしが裏切って、見捨てていったと思っているでしょう。そう考え るだけで、居たたまれない気持ちになって……」  マリスは、自分の身体を抱え込んだ。 「……もう、守ってあげることは、出来なくなってしまったわ……」  彼が今まで見た中にはない、悲哀に満ちた、アメジストの瞳であった。  口に出すのを躊躇いながらも、ケインは、思い切って、切り出してみた。 「……それが、……セルフィス王子――ベアトリクス王太子、セルフィス王子のことだった のか? 」  マリスはピクッと身体を震わせたが、彼の方は見ずに、静かに頷いた。 「アイリス王女を見て、そんな彼の姿と重なったの。彼女もまた、彼のように、純粋 で、儚くて、……誰かが側についていないと、壊れてしまいそうな……」  目を伏せてから、マリスは、顔を上げた。 「ケイン、お願い。あの娘(こ)を守ってあげて。彼女は、あなたを求めてる。王女な んて、何でも手に入る身分にいながら、自由は許されない、自由に恋愛することさえ、 許されないの。あの娘には、アストーレの期待を背負っていくなんて、押しつぶされ るほどの、かなりの重圧だわ。汚れを知らない、純真無垢な人間なんて、貴族の中 ——ましてや、王族の中にだって、そうはいないのよ。だからこそ、守ってあげなく ちゃ……! 」  紫水晶――アメジストの瞳には、強い光が照らされたように、強く輝き出す。 「城の中って、陰謀が渦巻いていて、本当にイヤなとこだけど、……ケインなら、 そんなものには負けないと思うわ。王女にまとわりつく、うるさいハエは、さっき あたしが餞別代わりに追い払っておいたし、ダミアスさんも、ケインのことは信頼 しているから、後ろ盾になってくれるだろうし、……あなたなら、世にも珍しい、 傭兵上がりの王にだって、なれるんじゃないかしら? 」 「な、何言ってんだ」  冗談を……と言いそうになるが、ケインはそれ以上は、言えずにいた。彼女の表情 は、からかっている時の様ではなかったからだ。 「ほんとよ。でなきゃ、せっかく出会った仲間だもの、簡単に解雇なんてしないわ。 ね、だから、アイリス王女の側にいてあげて。あの娘は、ただただ、あなただけを求 めているのよ。……それに応えてあげて……」  真剣な眼差しに、ケインは、じっと見入っていた。アメジストの瞳には、熱い物が 込められていた。 「マリス……」  揺るぎない瞳を向けていたマリスは、しばらくすると、照れたように微笑んでから、 岩から、元気に飛び降りた。 「あたしが言いたかったのは、それだけ。三日後、旅立つわ。……じゃ、……元気で」  手を振ってから、踵(きびす)を返し、彼女は、山を下っていく。  もう会うことは、ないのだろうか……?   そう思った時、ケインは思わず一歩踏み出していた。 「マリス……! ……フルネームは? 」  聞きたいこと、話したいことは、もっと他にあったはずだった。  しかし、自分でも、なぜだかわからなかったが、ケインは、そんなことを口走って いた。  マリスはゆっくりと振り向き、何かを吹っ切ったような素直な表情を見せると、 そのうち、彼から瞳を反らし、前方を――そこに見える景色を通り越した、さらに 遠くを見据えて、口を開いた。 「……マリス・アル・ティアナ・……ベアトリクス」  強い風が山間から吹き込み、彼女の髪を掬い上げる。  マリスは、それからは、振り向きもせず、まっすぐに進んでいった。  ケインは、追いかけなかった。  正確には、動くことが出来ず、追いかけられなかったのだ。 「……本当に……!? 」  衝撃は、しばらく彼の身体をがんじがらめにした。 「……まさか、マリスが、……ベアトリクス王国……王女だったなんて……!? 」


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